2010年6月3日木曜日

モノクロ写真2

カラー写真とモノクロ写真の違いについては以前にも考えたことがある。モノクロ写真の作用を解釈する際によく言われるのは次のような説だ。すなわち「モノクロ写真ではそこに色彩が無いので見る人が色彩を想像する。その際に刺激される想像力が被写体の存在感を高めたり感情をより強く刺激するように作用する」というやつだ。俺はこれは間違いだと思う。少なくとも自分はモノクロ写真に色彩を感じたりすることもないし、色彩を想像する気もない。もし誰かが、写真に写っている花や空が何色か?というクイズを出すなら推理してやってもいい。だがモノクロ写真を眺めるときに自らの意志で、この部分は一体何色なんだろう?などと色彩を想像したりすることなどまったくない。現に、自分で撮ったモノクロ写真でさえ、現場の色彩を唯一知っている撮影者であるこの俺でさえも、撮影した画像を見るときに撮影当時の色彩を思い出したり感じたりなんかしない。だって、色は自らそこで捨ててきたんだから。そんなの覚えてない。
俺は前回「モノクロ写真の本当の特性とは環境光の色温度が持ち込まれないこと」でありそれが「存在感を強調する」と言った。そのことについてもう少し考えてみたい。
写真が発明された時から想定されているその技術的使命とは、風景や立体物の姿を光学的方法で遠近法に則ったかたちで写実的・高精細に平面へと変換し(画像化)、それを固定化(記録)することだ。これは、魚拓や拓本と同じような「複製感」という効果をもたらす。複製感とは、実物から粘土で型を取ったようなそっくり感のことだ。(写真がネガやデジカメデータなどを元にたくさんのコピーを同品質で作成可能であるという意味の「複製」とは別だ)
写真は「客観性」という効果ももたらす。写真と見違えるほど写実的に描かれた肖像画や風景画は写真と同じ効果を目指したものに違いない。だが、画家が単に現実の輪郭を無作為に複製することを念じ、その執念深い手作業を完遂したとしても、画像の輪郭を生成するためには彼の主観を経過することは避けられず、その効果は写真にはかなわない。写真では、技術的に画像が機械的に自動生成されるので、画像の生成工程では撮影者の主観が織り込まれることがないからだ。
実際には写真はいくらでも加工が可能だが、写真の加工はあくまでオプションであり特殊である。なぜなら、画像の変形は写真の技術的使命にそぐわないし、それが写真でなければならない理由と正反対だからだ。
写真が現実の証拠であるという裏付けはないが、それは普通には疑われることはない。宇宙人や怪奇現象の写真が、ボケボケで不鮮明であってもイラストの説明なんかよりはずっと興味をそそられる。おそらくインチキに決まっていても、それが写真であることに若干の興味を確かに感じるのだ。これは一応にも写真というものが、基本的には被写体が無ければ画像を生成することができない技術であるということを認めてしまっている証拠なのである。
写真は、現実の複製であることを信じるに十分たる光学的に結像させられた巧妙な遠近感と精細な輪郭をもって被写体の複製感を作り出し、それを見る人の意識の中にあるその画像が機械的に生成されたものに違いないという先入観と一体となって、現実感や存在感を作り出すのだ。
写真が発明された時はモノクロ写真しかなかった。そして、写真が総天然色ではないことへの不満がカラー写真という技術を生み出した。現実に自然は彩色されているし、「記録」という写真の技術的使命にてらせば、天然の色彩を画像に転写することが正しい進歩と考えられたのは当然だろう。ところで、写真を見るときの角度の一つに、伝えたいことが客観なのか主観なのかという見方がある。前者はそこに物が存在した記録としてのみ提示される写真であり、後者は写真を見る人に撮影者の視点を非常に強く意識させる写真である。写真が発明された当時は、それらはあまり区別されておらず、写真がもたらす現実感や存在感は、画像が光学的に自動生成されることによって得られる当たり前の出来事だと思われていたに違いない。だが実際にカラー写真を見る時、モノクロ写真が別に苦労もせずに持ち合わせているそれらの効果を、同じ構図で撮影されたカラー写真が必ずしも持ち合わせていないことに気付く。技術的原因によるカラーバランスの崩れが印象を操作してしまったり、環境光の色温度が写真に引きずり込まれることによって、それを見る人の主観が増幅され、被写体の存在そのものをないがしろにしてしまうのである。もちろん、カラー写真では環境光を正しくコントロールすれば、モノクロには不可能な部分の情報伝達が可能だ。また、撮影者が写真の色彩をそれを見る人の主観と正しく共鳴するように環境光の効果を正確にコントロールすれば、撮影者の視点を非常に強く意識させることもでき、その意図においてはモノクロよりもはるかに効果的だと思う。しかし、撮影者が伝えたいのが被写体の「存在」そのものである場合、見る人の主観に正しく共鳴せず誤解を増幅する危険を持つ色彩情報を、そこから排除してしまうことも早道の一つなのである。
カラー写真は撮影者による一方的な情報の提示だ。カラー写真に織り込まれた被写体を照らす環境光は、それを見る人の主観を様々に刺激する。環境光の色の偏りを差し引いてカラー写真を観察するなんて無理だ。だから画像から受ける印象のすべてを受け入れるしかない。それを見る人はただ無心に受身でなければならない。それがカラー写真の約束だ。
モノクロの写真は、撮影者からそれを見る人へ向けたテレパシーだ。撮影者がカメラの向こうに提示するのは被写体の「存在」だ。それは写真を見る人が脳内でいったんカラー画像に変換するための材料ではない。それはただ、撮影者の意識と相互に通信を行うために用意された回線であり、色彩が排除された輪郭をじっと見つめることだけが、カメラの向こうにあるその「存在」を撮影者と同じ視点で共有することができる唯一の手段なのである。それがモノクロの視点だ。




NikkonF3, Nikkor-S Auto 35mm F2.8
Ai Zoom-Nikkor 35-70mm F3.5S ネオパン400PRESTO

0 件のコメント: