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2023年6月2日金曜日

Adobe Photoshop がえらいことに。「ジェネレーティブ塗りつぶし」

Adobe Photoshop 24.6.0(Beta)の「ジェネレーティブ塗りつぶし」機能を使ってみたところ、えらいことになっている。指定範囲を消去しようとして、タグ無しで生成ボタンを押すと、見知らぬ人が突然現れて驚くわけだが、弄りはじめると面白すぎる。

その1

以下、右側または下が元画像。この画像では、オブジェクト選択ツールで埴輪を選択しジェネレーティブ塗りつぶしでタグに"robot"を入れ生成ボタンを押した。そして、出てきた候補の内のひとつが左の画像だ。

その2

これは、タグに"steel"だか何だかを入れた。選択領域の輪郭とぴったり同じサイズの不思議な物体が、見事な色艶で出現した。
 

その3

これは、タグをどう入れたか忘れたが、元の埴輪と同じ色艶をした不思議な形状の物体が出現した。



その4

選択領域にぴったり内接する形状ではなく、余白を持った感じのオブジェクトが生成される場合もある。


その5

画像内の人物を一人一人選択し、タグに"boy", "man", "girl"などと入れ、すべての人を別人に置換してみた。もちろん、よく見ると人物の細部などは不自然な部分は多数あるが、生成されるオブジェクトが、多くの場合に割と自然でその出来栄えに驚かされる。自然な作品に仕上がるかどうかは、自分がどの辺であきらめるかということに依存しており、しつこく頑張ればおそらくちょっとやそっとではバレないクオリティの画像が作れるように思える。



その6

この画像では、中央の男性が別人になった。念のため言わなくてはならない。左が加工後、右が元画像だ。画像左端の女性もAIが生成したオブジェクトで別人になっている。もし、これの加工後の画像だけ見せられたら、おそらく何の疑問も起こらないだろう、くらいの品質になっている。なお、黄色の看板の文字にもいたずらを施している。

 

その7

この画像では、前の画像で看板に施したいたずらをメインテーマにした。画像内で確認できるすべての看板の文字を、ジェネレーティブ塗りつぶしがAIで生成した日本語とも英語ともつかないヘンテコな文字に置き換えた。細部までしつこくチェックしできるだけ自然なトーンになるよう、Helios-44-2レンズの非点収差を模すような「ぼかし(移動)フィルター」を用いて一生懸命細工した。まるで異世界で撮られた本物の写真であるかのように見えたらいいなと思う。
 
とくに左上の大塚商会の看板や、赤ちょうちんで囲まれた看板などは、かなり面白い出来栄えだと思う。右端の猫カフェの看板は不自然に浮いた感じになりがちで、何度も生成やフィルターなどやりなおしたが、ここは完全に成功している気はしない。

元画像

少し前から、AIによるイラスト作成が話題にも問題にもなっているところで、写真とは一体?という議論も盛んに行われている昨今だが、最新のPhotoshopベータ版に現れたジェネレーティブ塗りつぶし機能によって、AIで生成されたオブジェクトを写真の中にこうも自然に組み込めるようになったことは、画期的と言える。そして、これはまた新たな議論の種にもなるだろう。従来からPhotoshopで画像の偽造や加工などは何でもできる、という認識は既に一般的ではあったが、コピペするにも素材が必要だった。ところが、これからは素材を言葉で言うだけで画像が生成されてしまう事態になった。しかも、選択範囲の形状にぴったりで、ライティングやボケも自然で周囲の画像にうまく馴染むようなリアルで手頃なオブジェクトが自動で出現するのだから、面白くて仕方がない。

2023年3月18日土曜日

Kenko MC SOFT 85mm F2.5

ケンコーの「MC SOFT 85mm F2.5」を入手した。これは1987年にケンコーから発売されたソフトフォーカスレンズで、このシリーズには他に「MC SOFT 45mm F4.5」「MC SOFT 35mm F4」が存在するらしい。様式としてのソフトフォーカスは、タンバールやべス単など、もっと古い時代から存在していたが、1980年代後半にもちょっとした流行があり、この頃はペンタックスやキヤノン、ミノルタなどのカメラメーカーからもソフトフォーカスレンズが発売されていた。


Kenko MC SOFT 85mm F2.5 キヤノンFDマウント(1987)

入手したものはFDマウントが付いていたが、レンズ自体はPマウントの交換式になっている。

絞りは13枚羽根。

キヤノンFDからニコンZ用のマウントアダプターを使ってZ9に装着。

このレンズにつての動画を作成した。レンズの紹介と作例のほか、後半にはオマケの小話を入れている。
モバイル版のページをご覧の方は画面下の「ウェブバージョンを表示」で動画へのリンクが表示できます


MC SOFT 85mm F2.5 作例

























Kenko MC SOFT 85mm F2.5,Nikon Z9
ピクチャーコントロール:[SD] スタンダード
アクティブD-ライティング:Auto

デジタル加工フィルターを用いても、ソフトフォーカスレンズと似た効果を得ることができることは周知である。被写体を理想的に見せるために、元画像をフォトショップでこねくり回し、主観的に多くの人為的修正を加える行為は、写真が写真でなければならない理由を蔑ろにするものだが、技術的には単純なデジタル加工フィルターの延長と言えるし、それは違うと言おうにもどこが境目なのかは曖昧だ。一般的には、ソフトフォーカスレンズやソフトフォーカスフィルターは「特殊効果」として取り扱われていて、それらが積極的全面的に実用あるいは作品作りに使われる機会はたまにであって、全体的な多数派ではない。ソフトフォーカスレンズの紡ぎ出す像は、人が肉眼で捉えられる風景と大きく違うものではある。しかし、「写真」という技術を「レンズが光学的に紡ぎ出す像を機械的(画像の輪郭生成に主観的な加工や変形を介在させないでという意味で)に二次元平面に定着させたもの」と定義するならば、ソフトフォーカスレンズで撮られた写真は紛れもなく正統な「写真」である。レンズを使わずに光と写真感材を使って作られる「フォトグラム」であるとか、「青写真」と呼ばれるジアゾ式複写の画像や、機構内に光学レンズは使われているものの、被写体が二次元表面だけに限られるコピー機の画像などを、「写真」と呼ぶことの方が余程難しいわけで、そういった意味でもソフトフォーカスレンズを使った写真の正統性には疑いの余地は無い。どことなく、奇をてらった飛び道具的な印象があるソフトフォーカスレンズであるが、注意しながら慎重に使ってみると、その描写は実に味わい深い。たった1/3段の絞りの違いで効果が大きく違ったりするのも面白い。このレンズは、折に触れもっと使っていきたいと思う。

2021年7月6日火曜日

Kowa Anamorphic-16映写レンズによるテスト撮影(夜景篇) Nikon Z7 II(4K)

Kowa Anamorphic-16映写レンズを使って撮影した前回の動画では、アナモルフィックレンズ特有の点光源から水平に伸びる横引きのフレアや、アウトフォーカス部分で楕円形になる玉ボケがあまりはっきりと現れていなかったので、もう少しよくわかるように夜景でテスト動画を撮り直してきた。
今回は撮影レンズ(New Nikkor 135mm F2.8)とフロントコンバーター(Kowa Anamorphic-16)の間に52mm径のC-PLフィルターを入れ、回転枠兼NDフィルターの代わりに使い、絞りはF2.8開放で撮影している。前回、ビデオ雲台(マンフロットMVH-500AH)のパン棒を輪ゴムで引っ張って水平パンをしたものの、腕が悪く見苦しかったので、今回はSky-Watcher AZ-GTiマウントを使って電動パンをさせている。DCモーターとギアによる作動音がマイクに入るため、音声は使えないという弱点があるが、手動では無理がある上下方向の微速度パンも可能である。
(モバイル版のページをご覧の方は画面下の「ウェブバージョンを表示」で動画へのリンクが表示できます)

スチル畑の者からすれば、レンズゴーストやフレアなどは、無いに越したことがないのだが、映画など映像の世界ではレンズ性能に対する価値観が全く異なるようで、レンズの光学的欠陥であるゴーストやフレアの類はむしろ、重要な映像効果と見なされているようだ。近年になってシネレンズを供給し始めたシグマのラインナップにも、コーティングをわざと取り除いたシリーズが用意されているなどという情報は、スチル畑の者にも気になる話だ。

映画の世界では、アナモルフィックレンズではない普通のレンズを「球面レンズ」と呼ぶらしい。写真用カメラの世界では非球面レンズという言葉には馴染はあるものの、そうでないレンズをわざわざ球面レンズとは呼ばないのでピンとはこないが、映画の世界ではアナモルフィックかそうでないかは撮影から上映まで何もかもが違うため、アナモルフィックでない普通のレンズを明示的に「球面レンズ」と呼ぶ必要がどうやらあるようだ。
アナモルフィックレンズは、シネマスコープなどワイドスクリーン映画の撮影に使われるもので、シリンドリカルレンズによって作り出される「アナモルフィックフレア」や楕円形のボケなど、レンズ描写に顕著な特徴があり、映画の雰囲気を模したシネルックと呼ばれる効果を映像に与えたい場合には、単に球面レンズで撮影した映像の上下に帯を入れるだけの方法よりも、ずっとそれっぽくなるというわけだ。現代のデジタルカメラでは、撮影した映像の上下を切って1:2.35のアスペクト比にトリミングしたとしても、十分な画質が得られるはずで、ワイドスクリーンのために水平方向を光学的に圧縮して記録することはそもそも必要無いが、映画の世界では現代でもアナモルフィックレンズが使われており、最近ではミラーレス一眼のマウントに対応した民生用のアナモルフィックレンズがSIRUIから発売されている。

今回、Kowa Anamorphic-16という奇妙なレンズを手に入れるまで、ついぞ知らなかったのだが、映写機用の古いアナモルフィックレンズを使って動画を撮影する方法は割と広く行われているようで、Youtubeではこの種の方法で撮影された映像を多く見つけることができる。また、楕円形の対物絞りにテグスを張ったものを撮影レンズに取り付けることで、アナモルフィック調のフレアやボケを得ようとするDYIの試みがあったり、クロスフィルターに似ているが十字ではなく横引きのフレアだけを発生させる「true-streak illustration」なるフィルターがシュナイダーブランドで販売されていたりと、世間にはアナモルフィック調の効果に対する需要はいくらかあるようだ。

レンズの欠陥によって引き起こされた、いかにも人工的な光学ノイズを、フィクションファンタジーの世界観を増強する効果として人類の感性が認識するようになった原因は、アナモルフィックレンズが映画にしか使われないからだろう。光学ノイズを映像効果に昇華させたという意味では、似た物に漫画やアニメで見られるレンズゴースト風の表現や、ゲーム映像などに見られる倍率色収差を模した色ズレ、周辺光量を落とした表現などが思い当たる。アニメの中でテールランプや眼光の演出などに見られるような残像表現は、撮像管時代の夜間映像の印象が起源になっているのかもしれない。縦引きのフレアはかつてCCDで撮影された映像に見られたノイズ(スミア)だが、それはファンタジー世界を舞台とした映像にはあまり登場しないようだ。CCDカメラは監視カメラやニュース映像、家庭用のビデオカメラなど、記録目的に広く使われたような印象が強く、ファンタジーとはあまり縁が無いのかもしれない。光学的なものではないが、かつての映像技術の欠陥により生まれていた電子的なノイズも、現代の映像作品に効果として用いられているのを見かけることがある。ヘリカルスキャンヘッドによる映像のつなぎ目に現れる水平ノイズを模倣したVTR調の表現や、ブラウン管を模したインターレス調の表現などがホラージャンルのゲームやビデオ作品の映像に見られたりするが、ふと気づくのは、これらがシネルックとは反対の目的に使われていることだ。映画調はファンタジー目的なのに対し、ビデオやテレビの技術を模した電子調のノイズは、フィクション作品に現実感を織り込む目的で使われている。光学ノイズと電子ノイズが人の感覚にそれぞれ反対のバイアスを掛けるのは興味深いが、そういった感覚は、我々が近代に経験してきた映像技術とそれによって作られた文化と記憶によって生じているのだろう。アナモルフィックからは話がずれてしまったが、映像効果としてのノイズについて考えさせられる機会になった。

2018年12月3日月曜日

モノクロ

カラー写真では、色温度が過去の記憶をサーチするインデックスとなり意図しない感情を自動的に共振させてしまう。モノクロ写真では、季節や時間帯といった色温度に纏わりつく感情の一切は剥ぎ取られ、抽象的な時間の中に被写体の存在が浮き上がる。D850で撮影した画像をグレースケールに変換したものに赤フィルターや粒状感、周辺光量落ちなどを追加し、銀塩風の画像をねつ造した。撮影時にはモノクロ化を意図していないため、本来のモノクロ写真の手順とは異なる。




Nikon D850, AF-S NIKKOR 14-24mmF2.8G

2018年8月12日日曜日

花火

中央区が主催する花火大会は2015年を最後に中止となっていたが、今年はホームページ制作会社が主催する花火大会が東京湾で開催された。歌舞伎コラボとBSフジの中継が主体の有料イベントだが、打ち上げ場所から4.5kmほど離れた都内のビルから花火の打ち上げを観察することができた。

Nikon D850, AF-S NIKKOR 200-500mm f/5.6E ED VR
ISO64 F=200mm F8.0 30秒
3枚の画像をカラー比較(明)で合成


調整前後の画像を比較

湿度が高く大気がガスっているのに加え無風に近い状態で、花火の煙が停滞して見通しが悪い。撮影した画像はコントラストが低く見栄えのしないものになった。D850で撮影したRAWデータをAdobe Lightroom Classic CCで現像する。彩度とコントラストが欲しいので、プロファイルは「カメラ風景」を選択する。トーンカーブの調整にある「ダーク」のスライダーをマイナス側に動かすと、かすみが除去され締まりのある画像になる。「ライト」のスライダーをプラス側に動かすと、自然な感じで花火の輝きが増す。Lightroomにはこれとは別に「かすみの除去」というスライダーがあるが、この画像には適しておらず、「ダーク」と「ライト」のスライダーが非常にうまく働き、そこそこキレイな画像になった。上の画像は、Photoshop CCで3枚の画像を合成したもの。

さて、長時間露光で撮影された打ち上げ花火の光跡は「写真」と言えるのだろうか。この画像は人が肉眼で観測し得た現象ではないし。フォトショップで複数画像を合成した点についても時間軸が圧縮されており、作りものと言える。だが、個々の画像に定着された光跡は、レンズによって光学的に結像されたものに違い無く、デジタル写真の機械的プロセスによって生成された像を歪めずにそのまま用いたものである。画像の輪郭を生成する過程においては撮影者の主観も手作業も介在していない。いわば、魚拓をコラージュしたようなものであり、目を書きいれたり尾ひれを書き足したりしたわけではない。

先週、映画監督のヴィム・ヴェンダース氏が「iPhoneで撮った写真は、写真とは呼べない」と言ったなどというニュースが流れ、iPhoneの信者は騒然としたわけだが、これは面白い話である。その理由として、スマホ写真はプリントされないことや画像を加工できることなどをあげている。この話については、同意も反論もたくさんの疑問もある。そもそも、画像を後加工するという行為は、写真が写真でなければならない理由とは正反対である。それは、写真という表現手段の技術的価値をないがしろにする行為にほかならない。俺は個人的には画像の加工はほとんどやらない。露出や階調の補正、ホワイトバランス修正すらしたくないが、軽微であればそのくらいはセーフだと思っている。レンズが結んだ像を変形させたり、都合の良いように切り取ったり消し去ったりしない限り、写真の価値は同一のまま保たれると思っている。

2010年6月3日木曜日

モノクロ写真2

カラー写真とモノクロ写真の違いについては以前にも考えたことがある。モノクロ写真の作用を解釈する際によく言われるのは次のような説だ。すなわち「モノクロ写真ではそこに色彩が無いので見る人が色彩を想像する。その際に刺激される想像力が被写体の存在感を高めたり感情をより強く刺激するように作用する」というやつだ。俺はこれは間違いだと思う。少なくとも自分はモノクロ写真に色彩を感じたりすることもないし、色彩を想像する気もない。もし誰かが、写真に写っている花や空が何色か?というクイズを出すなら推理してやってもいい。だがモノクロ写真を眺めるときに自らの意志で、この部分は一体何色なんだろう?などと色彩を想像したりすることなどまったくない。現に、自分で撮ったモノクロ写真でさえ、現場の色彩を唯一知っている撮影者であるこの俺でさえも、撮影した画像を見るときに撮影当時の色彩を思い出したり感じたりなんかしない。だって、色は自らそこで捨ててきたんだから。そんなの覚えてない。
俺は前回「モノクロ写真の本当の特性とは環境光の色温度が持ち込まれないこと」でありそれが「存在感を強調する」と言った。そのことについてもう少し考えてみたい。
写真が発明された時から想定されているその技術的使命とは、風景や立体物の姿を光学的方法で遠近法に則ったかたちで写実的・高精細に平面へと変換し(画像化)、それを固定化(記録)することだ。これは、魚拓や拓本と同じような「複製感」という効果をもたらす。複製感とは、実物から粘土で型を取ったようなそっくり感のことだ。(写真がネガやデジカメデータなどを元にたくさんのコピーを同品質で作成可能であるという意味の「複製」とは別だ)
写真は「客観性」という効果ももたらす。写真と見違えるほど写実的に描かれた肖像画や風景画は写真と同じ効果を目指したものに違いない。だが、画家が単に現実の輪郭を無作為に複製することを念じ、その執念深い手作業を完遂したとしても、画像の輪郭を生成するためには彼の主観を経過することは避けられず、その効果は写真にはかなわない。写真では、技術的に画像が機械的に自動生成されるので、画像の生成工程では撮影者の主観が織り込まれることがないからだ。
実際には写真はいくらでも加工が可能だが、写真の加工はあくまでオプションであり特殊である。なぜなら、画像の変形は写真の技術的使命にそぐわないし、それが写真でなければならない理由と正反対だからだ。
写真が現実の証拠であるという裏付けはないが、それは普通には疑われることはない。宇宙人や怪奇現象の写真が、ボケボケで不鮮明であってもイラストの説明なんかよりはずっと興味をそそられる。おそらくインチキに決まっていても、それが写真であることに若干の興味を確かに感じるのだ。これは一応にも写真というものが、基本的には被写体が無ければ画像を生成することができない技術であるということを認めてしまっている証拠なのである。
写真は、現実の複製であることを信じるに十分たる光学的に結像させられた巧妙な遠近感と精細な輪郭をもって被写体の複製感を作り出し、それを見る人の意識の中にあるその画像が機械的に生成されたものに違いないという先入観と一体となって、現実感や存在感を作り出すのだ。
写真が発明された時はモノクロ写真しかなかった。そして、写真が総天然色ではないことへの不満がカラー写真という技術を生み出した。現実に自然は彩色されているし、「記録」という写真の技術的使命にてらせば、天然の色彩を画像に転写することが正しい進歩と考えられたのは当然だろう。ところで、写真を見るときの角度の一つに、伝えたいことが客観なのか主観なのかという見方がある。前者はそこに物が存在した記録としてのみ提示される写真であり、後者は写真を見る人に撮影者の視点を非常に強く意識させる写真である。写真が発明された当時は、それらはあまり区別されておらず、写真がもたらす現実感や存在感は、画像が光学的に自動生成されることによって得られる当たり前の出来事だと思われていたに違いない。だが実際にカラー写真を見る時、モノクロ写真が別に苦労もせずに持ち合わせているそれらの効果を、同じ構図で撮影されたカラー写真が必ずしも持ち合わせていないことに気付く。技術的原因によるカラーバランスの崩れが印象を操作してしまったり、環境光の色温度が写真に引きずり込まれることによって、それを見る人の主観が増幅され、被写体の存在そのものをないがしろにしてしまうのである。もちろん、カラー写真では環境光を正しくコントロールすれば、モノクロには不可能な部分の情報伝達が可能だ。また、撮影者が写真の色彩をそれを見る人の主観と正しく共鳴するように環境光の効果を正確にコントロールすれば、撮影者の視点を非常に強く意識させることもでき、その意図においてはモノクロよりもはるかに効果的だと思う。しかし、撮影者が伝えたいのが被写体の「存在」そのものである場合、見る人の主観に正しく共鳴せず誤解を増幅する危険を持つ色彩情報を、そこから排除してしまうことも早道の一つなのである。
カラー写真は撮影者による一方的な情報の提示だ。カラー写真に織り込まれた被写体を照らす環境光は、それを見る人の主観を様々に刺激する。環境光の色の偏りを差し引いてカラー写真を観察するなんて無理だ。だから画像から受ける印象のすべてを受け入れるしかない。それを見る人はただ無心に受身でなければならない。それがカラー写真の約束だ。
モノクロの写真は、撮影者からそれを見る人へ向けたテレパシーだ。撮影者がカメラの向こうに提示するのは被写体の「存在」だ。それは写真を見る人が脳内でいったんカラー画像に変換するための材料ではない。それはただ、撮影者の意識と相互に通信を行うために用意された回線であり、色彩が排除された輪郭をじっと見つめることだけが、カメラの向こうにあるその「存在」を撮影者と同じ視点で共有することができる唯一の手段なのである。それがモノクロの視点だ。




NikkonF3, Nikkor-S Auto 35mm F2.8
Ai Zoom-Nikkor 35-70mm F3.5S ネオパン400PRESTO