今日は朝から自転車で公園へ。平日の誰もいない公園で深まり行く秋の風情を感じながら、途中コンビニで買った焼きそばパンを食う。俺はときどき夜勤があったりする仕事の関係で、平日の休みが多いのだ。そして、「パン・茶・宿直」という歌を思い出した。この歌はその後、「朝からちょと運動、表参道、赤信号」と続く。今日はあとから、11年ぶりに復活したけやき並木のイルミネーションを見に、表参道へ行こうと思っている。
公園の後、運河沿いの緑道公園で漂着物を観察する。あるある。イチジク浣腸だ。10メートル程の区間で2個見つかった。
ごみは人々の経済活動の末に排出されたものだ。漂着ごみは、それらが河川や運河、海に流出し、そのうちのある性質のものだけが自然により分けられたものだ。すなわち、それらは水に浮かんでなおかつ溶けたり腐ったりしない、プラスチックや発泡スチロールなどの樹脂製品がほとんどだ。イチジク浣腸の容器が、漂着ごみの中にあったとしてもおかしくはないが、不思議なのは、それが見つかる頻度だ。ここにあるものは皆、いったん波にもまれてごちゃまぜになり、誰かの趣味や好みなども限りなく平均化されたサンプルになっているはずなのだ。同じものが一組のごみとして連続して流出したとしても、漂流している間にばらばらになると考えるのが自然である。そして、ほかにもバドミントンの羽が3個、注射器が2個など、不思議な偏りが見られる。そういうものは、あるところにはあるのだろうが、我々の生活の中ではそれほどメジャーではない。俺はバドミントンの羽もイチジク浣腸も知ってはいるが、生まれてこのかた、ごみとして捨てた記憶がない。それが、漂着ごみの中では、スリッパやカップヌードルの容器とさほど変わりない頻度で見つかる、というのがどうにも不可解なのである。実はこれらが、人知れずどこかで大量に消費されているのだろうか?それとも、天然のフィルターによるより分け作用が、これらを同じ場所へ集めているのだろうか?
夕飯の後、表参道へ行ってみた。木への負担を考慮したらしく、枝の先端までは電飾がついていないため、なんだかイメージとはずいぶん違う。また、電飾はすべてLEDで、電球色を模したような色にはなっているが、特殊な色味の光線らしく、演色性が非常に悪い。色温度の尺度(黒体軌跡)上にあるようなスペクトルではないと思われ、デジカメのホワイトバランスを色温度で設定しても、人物撮影では顔色がひどい黄色かぶりになる。人物に対してはAWBやマニュアル設定も可能だが、それでは肉眼の印象とは程遠く、背景にある他の光源がマゼンダ気味になったりして、夜景写真としては不自然だ。ライトアップは昨日始まったばかりだが、この冬表参道を訪れる多くの人々は、新しい電飾の演色性の悪さにがっかりするに違いない。
0 件のコメント:
コメントを投稿