2008年12月2日火曜日

D3xは24MP 高画素数 vs アナログ写真

D3xが噂どおり12/1に発表された。24MPで89万円。24MPは魅力だが高すぎる。俺のようなアマチュアの場合、費用対効果は見込めない。俺の場合、デジカメは実用写真を撮るためと、レンズ遊びの道具である。その他の「実用でも遊びでもない写真」についてはやっぱりアナログである。
「実でも遊びでもない写真」って何か。芸術とまでは言わない。それは自分のために行う詩的な実験だったりする。ちょっとばかし厳粛なやつだ。こういうのにはデジカメは精神的に違和感がある。デジカメがたとえ何億画素になろうとも、人間の感覚や自然の風景を写しとるための最初の媒体が、拡大すると銭湯のタイル画のように規則正しく並んだ人工的な方形のピクセルで構成されていると思うと萎えるのである。(人の感覚を記録するために、より工的と思える方法が馴染まないというのもおかしな話ではあるが)

写真表現という行為は
、レンズの前に存在する被写体を素材にして、元々は物質としては存在しないところの撮影者の主観というものを写真として組み立てあげ物質化する作業である。表現目的での写真には測量を行うような正確さは要求されないが、写実性は写真という技術の根本要素のひとつであり、被写体の輪郭やトーンの細部構造についてはその記録媒体の中においてアナログ的に無限に続いていて欲しいわけである。
しかし、記録媒体の能力には制限があり、画像の細部構造を無限に記録できるわけではない。フィルムにしても粒子があるからして、解像度が無限なわけではない。だが、銀塩写真ではそれが微細な点描画であるからこそ、その細部構造を見るとき、ツブとツブの間を補間する感覚が喚起させられ、その奥行きを無限にしている。一方、デジタル画像の細部構造は、最終的には縦横に整然と並んだピクセルの妥協的位置に配置される。滑らかに消え行ってほしいディテール表現の最後が、原理的に階段状であることに思いをめぐらせてしまうと、どうにも精神的な違和感を覚えるのだ。


イメージ写真
(オリンパス ペンF, ネオパン400プレストにて撮影したネガの中央部)

俺はフィルムが好きだ。粒子によって構成された微細な輪郭を観察することは、目を凝らして霧の向こうに何かを見つける作業とどこか似ている。あるいは、それは暴風の向こうにかすかな声を聞くことにも似ていたりもする。ノイズと見分けるのが困難だが、それらをじっと、あるいは、ぼんやりと見つめ続け、それを構成する粒子たちが対象を的確に抽象化したものであると信じる事によって、その奥行きや細部構造が際限なく続いていることを確信するわけだ。フジやコダックの人がプラスチックフィルムにどんなふうに乳剤を練りこんでいるか知らないが、引き伸ばし機にかけたネガをピントルーペで覗く時、その、どこか天然の法則によって司られたような粒子の濃淡が、人知を超えた謎の作用によってできた造形であるかのように思えることがある。フィルムの粒子は現像液の中でいったんふやけて自由になった後、不思議な力でもって人間の感覚に共振し、粒子同士がうまいこと擦り合わさって、微細なレベルで都合よく均衡し、心で見た風景が自動的に結像しているかように感じられてしまったりするのである。

実用写真という目的では、フィルムの粒状感は嫌われ者である。
一千万画素超のデジカメ画像からインクジェット出力されたA4、あるいは四つ切サイズのプリントでは、細部にモザイク状の構造は視認できず粒状感のかけらもない。135判フィルムでの引き伸ばしサイズの上限が、一般的には四つ切、あるいはA4程度であると仮定できるなら、デジカメ画像の精細度は135判フィルムと同等、あるいはそれを超えていると言ってもいい。しかし、デジカメ画像の場合は撮影画素数によって出力サイズが制限されてしまい、モザイクが視認できるサイズになると、奥行きがプッツリと途切れたように感じられてしまう。一方、フィルムの場合は、粒子さえはっきりしていれば、どんなに大きく引き伸ばされてもぼやけた印象は無く、むしろ粒状感が無限の奥行きを誘う。粒子が視認できることを許す場合、出力サイズには必ずしも一定の制限は無いといえる。
デジカメは、撮影時の画素数が多ければ、より大きなサイズのプリントを出力できるが、出力サイズと印刷品質の条件によって求められる画素数は決まっており、出力条件を無視したオーバークオリティでの元画像は意味が無い。カメラメーカーやプリンタメーカーもそう口を揃え、商業写真家やデザイナー達がそれを受け入れているのに対し、アマチュア写真家のうち幾分かの人々は、彼ら自身にもなぜか分からないまま強弁にしてそれを受け入れようとしない。そういった方々は、いかにもっと多くの画素数が必要であるか、いかに自分にそれを要求するだけの正当な理由があるかという主張ばかりを繰り返す。彼らの屁理屈の大部分は、
商業写真家に対する劣等感や誤解に加え、資本主義的な虚栄心が生み出した高級機材へ執着などが渾然一体となって昇華したものに違いない。だが、デジタル画像の細部構造がピクセル画である以上、写真の技術的使命に照らせば画素数を増加させることは間違いとはいえないのである。そして、今回のD3xの24MPという値は、アマチュアにとっては明らかに不要だと言い切るにも微妙な値でもある。135 判スタイルのデジカメシステムに、中判デジタル並の解像度が求められる市場もあるだろうし、アマチュア写真家にとってはお金がかかること以外カメラの性能向上を否定する理由はない。

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